徒然なるままに。
キビタキさん
今朝キビタキさんが裏山で鳴いてらっしゃった。
今朝、キビタキさんが裏山にいらしていました。子育てを終えたら東南アジアへ渡って越冬するんですって。
— うつ畑 (@utsubatake) June 6, 2025
裏山に来てくれてありがとうだよ🥰#キビタキ pic.twitter.com/QrEWvLn3wS
初めて聞いたその歌声に感激して、慌てて忍足で家にカメラを取りに行き、Recボタンを押した。
なんて心地のいい声なんでしょう。
繁殖のために東南アジアから日本列島に渡ってきた夏鳥のキビタキさん。
他のオスを威嚇したり、メスにアピールするために歌ったり、忙しそう。
こうしてこの先、「あぁ、今年もキビタキさんがやってきたなぁ」って歳を重ねて行くのか。
毎年続きますように…。
摂食
今はもう、そんな学校なんてないんじゃないかと思うけれど、私が子どもの頃に通っていた田舎の小学校には、給食を「残してはいけない」というルールがあった。
少食だった私は、おなかがいっぱいになってからも、まだお皿の上に残った給食とにらめっこしながら、昼休みを過ごしていた。
もう一粒たりとも入らない、っていうあの感覚は、今でもはっきり覚えてる。
チャイムが鳴ると、先生がちょっと呆れたように「持って帰りなさい」と言う。
ランドセルには、家から持ってきたビニール袋。そこに、泣きながら給食の残りを詰めていた。
子どもながらに、あれは屈辱だった。
それ以来、食べることにどこか苦手意識がついてまわるようになった。
とくに外食。家族じゃない人とごはんを食べる場面は、できれば避けたいと思っている。
「残したらどうしよう」「完食できなかったら気分を害されるかな」
そんな思いで、メニュー選びから緊張して、血糖値が上がって満腹を感じる前に、とにかく急いで口に詰め込む。
それがいつものパターンだ。
だから、私と外食したことのある人は、きっと「この人すごくお腹空いてるんだな」って思っているかもしれない。
ほんとは違うんやけど。
私にとって、長いこと食事は「摂食」(せっしょく)だった。
ただ体に入れる行為。ただのエネルギー補給。
そんな私に、「喫食」(きっしょく)を教えてくれたのは、夫とその家族だった。
彼らは、食べたくないものは食べない。
お腹いっぱいだったら無理に食べない。
美味しいものを、美味しいと感じられる量だけ、美味しいお酒と一緒に楽しむ。
それがあたりまえのようだった。
初めてその食卓に混ぜてもらったとき、びっくりした。「え、残していいの?」って。
そして、結婚して海外旅行へ行くたびにも驚いた。
どの国でも、無理して食べる人なんてあまりいない。
中国では逆に、料理を残さず食べきってしまうと「もてなしが足りなかった」と受け取られてしまうらしく、少し余るくらいがマナーなのだそう。
もちろん、「残さず食べる」って、とても美しいことだと思う。
育ててくれた人や、動物たちへの感謝の気持ちでもある。
今ではフードロスも世界的な問題になっていて、「食べ残さない」ことが正しいとされる空気もある。
たしかに、それもすごく大事な価値観だと思う。
でも、体調や気分に関係なく、「残しちゃいけない」っていう一心で食事の時間を追い詰めるのは、やっぱり、どこか違う気がしてきた。
食べれそうなぶんだけ用意して、もし足りなかったら、あとでおやつでもつまめばいい。
それでも余ったら、ミミズコンポストのミミズさんに召し上がってもらえばいい。
…そんなふうに、「食べること」がこの歳になってようやく好きになってきた。
無理せず、正直に。
食べきれなくても、だいじょうぶ。
そう思わせてくれた夫と、残ったぶんまで引き受けてくれるミミズさんに、小さな感謝をこめて。
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